悲しみの存在意義

 キスがうまくなりたいという願望を持ったことがある人間と、それを自然のなりゆきに任せようと思った人間との間には、創造する側とそれを批評する側くらいの隔たりをもって、永遠に分かち合えない価値観が存在する。そしてその間にまたキスに関する様々な考えをもつ人が無数に存在する。
 
 人の価値観は人の数だけあるが、悲しいことにそれを統制しようとする力は圧倒的な巨大さで存在する。

 私は、悲しいときには悲しい歌を聴いて、その歌詞に自分の沈み込んだ感情を叫ばせて傷を癒す、という人がいる。
 一方で、本人の意思とは関係なしに、もしくはうらはらに沈みゆく感情など、サンバのリズムさえあれば、私は供え物のように天に召され、そして忘れ去ることができる、という人もいる。
 
 ピカソを見て悲しいと思うか。
 
 それは数多の批評家や、出尽くし、なぞられ尽くした論理が決めることではなく、君が決めることだ。

 その絵は悲しい絵なのだ、と。

 君がどう感じるかが最も正しい。サンバのリズムにも涙する感情こそが美しい。
 
 世の中を真正面から見る目を失い、四六時中耳鳴りが止まない、そんな世界の歪みに存在する自分でも、精一杯と同じ意味のスローモーションでやっと触れることのできる感情がある。
 この世の断崖にはまり、抜けられず、もがき苦しんで入いる時の、全ての喜びや楽しさから最も遠いところにいる君の、歓楽街の娯楽のような簡単な癒しを受け入れられない君の、何を見ても悲しいと感じるその評価が、創造を最も美しくする。

 しかし君は、その自分の"評価"が悲しみという一方的な感情でのみから構成されていることに途方にくれる。なぜミルクポーションのような微量の楽しさすらそこにはいないのかと。苦いその濃茶の味と香りに、君は君自身の至らなさを考える。そして、何かとても大切なものが欠落した人間である気分になる。

 世の中の平等というやつは、時として無邪気に、何かが欠けているという人間を容赦なく襲う。車椅子から眺める運動会の風景のように、悪意なき傷を君に刻む。そしてこう耳元で囁く。
 「傷つく君が悪いのだ。」
 傷はその台詞の繰り返しによってさらに化膿し、ただれる。いつしか感情が豊かではない自分を呪いさえする。

 君は君の感情が、―種類がどうであれ― 猛々しく一方向のみを指しているなによりも太く鋭いベクトルであることに気付いていない。
 様々であるはずの価値観をひとつに統制しようとする、悪意に満ちた強大な力にすら太刀打ちできるほどの、時間と頭脳の強制的な洗礼によって贅肉を削ぎ落とされ、骨と皮だけになった評論の理のミイラを完全に葬り去るほどの。
 
 愛想よくあちこちを向いた、喜怒哀楽がバランスよく入り混じった感情ではなく、一方向的な矢印であるからこそ美しいのだ。
 感情を様々に揺さぶる曲は多々あるが、まったく悲しみしか感じさせない曲というのはそう多く存在しないように。それはきっとあらゆる意味でただ美しい。

 君が何をしていても悲しみしか汲み取れない時、感情のミックスでゴテゴテと着飾るあらゆる人間をさしおいて、君は最もプレシャスで美しい存在である。

 悲しみしか吐き出せず、もがき苦しんで、自己嫌悪に己の存在すら呑まれそうになっている時、君は美しいのだ。

 美しいものには存在する意義がある。
 
 きっとフェンスの向こうの運動会から、車椅子の上の君に気付き、悲しく美しい君を見つける人間がいる。
 そして墨絵のようにシンプルな悲しみを持った君を見て、彼は君を美しいと思う。君は、君自身の気付かない自らの美しさを彼に指摘され、やがて悲しみという感情の呪縛から解かれる。

 悲しみしか持たない君にも存在する意味がある。