ブラッドオレンジジュースが子供用風邪薬の味をする

 
 僕は風邪っぽかった。
 風邪にはビタミンCだろう、ビタミンCと言えばオレンジだろう、オレンジジュースでも同じだよね、という流れでブラッドオレンジジュースを買った。どうせなら飲み慣れた濃縮還元のものではなくて、ちょっとお洒落に、というわけでブラッドオレンジジュースを選んだ。
 こどもの頃、まだ幼稚園だったころに風邪をひくと病院から必ずもらっていた液体の飲み薬の味がした。甘いのに、どこか薬っぽい化学の味。
 でも、そのうち、ブラッドオレンジジュースが子供用風邪薬の味に近いのか、僕が風邪っぽいからブラッドオレンジジュースの味に子供用風邪薬の味を見つけてしまうのか、それがわからなくなった。
 
 僕はいつも原因と結果が勝手にひっくりかえってしまうややこしいオトコだ。
 そうなってしまうといつもの迷惑にミラクルな世界へと僕は足を踏み入れる。内側が外側になり、外側が内側になる。右側にあるはずのものは本当は左側に位置し、過去に存在したものが未来への道になる。
 熱で頭がぼーっとしたまま、事の因果関係について想いを馳せる。
 もう僕にとっては過去でも未来でもない話に。
 
 『風邪にかかって飲んだブラッドオレンジジュースがもともと子供用風邪薬の味がするのか、現在の風邪がこどもの頃に風邪をひいた時の味覚を引き出すからそう感じているだけなのか。』
 
 それはどちらも正しいと言うにはあまりにも乱暴すぎるのではないか、とふと思った。確かに彼女らは違うふたつの物で、ブラッドオレンジジュースは子供用風邪薬よりも黒の濃い赤い色をしているし、酸味もずっと強い。僕のなかのエゴが、記憶の混乱をなくす為に、都合のいいようにその違うふたつを最大公約数的につなげたのだと説明されるだけでは、僕の中の過去や現在が未来となるには何かが足りなすぎる。
 誰にだって現在の自分の因果を想う。
 パーソナルで、だからこそ激しく、そして吸い込まれるように光り輝く方程式を求めようとしたっていい。
 
 僕は自分の人生の時間軸の狂った人間だ。
 僕にとっての過去はふた通りあり、その混乱を受け入れる現在の自分はひとつでしかない。そのふたつは僕の許容の範囲よりもずっと巨大で、やがて僕から優しさやぬくもりとともに、存在した事実そのものすら忘れさせようとけしかけてくる。
 そして今の僕には、その怒りのような過去を想う残りかすの気持ちを受け入れてくれる先がない。自分の中にも、僕にとっての世界の全てにも。弱い僕は、僕の存在する世界の過去をも受け入れることができなくなりそうだった。
 だから僕は精一杯逃げた。ふた通りのうちのひとつの過去から。断崖を転げ落ちもんどり打ちながら、事実でありながら僕の記憶には刻まれていなかったそいつが、もう追いかけてこれない場所へ行こうとした。
 それでも僕は逃げ切れなかった。ふたつの因は紡がれて果となり、逃げていた間もずっと僕の首根っこに固く結び付けられていたのだ。

 そういった後悔や過去の呪縛に苛まされながら、僕は何となしにブラッドオレンジジュースをもう一口飲む。やはりこどもの頃に飲んだ風邪薬の味がする。それから、こどもの頃に済んでいた家の冬の暖房の誇りっぽい匂い、白猫シバの泣き声とオリーブグリーンをした目の色、将棋を指すパチンという音。徐々にもっとたくさんの記憶の断片を風邪薬は僕にもたらす。おじいちゃんのキセルのくすんだ銅色、絹の反物の防臭剤の匂い、ストーブの上で悲鳴を上げる薬缶。
 たったふたつの点の間が一直線で結すばれ、僕を混乱させていたのに、今はその点の数がホタルの光のようにあちこちから現れ、僕の想いの及ばない記憶までも思い出させる。
 しかし僕は、そのたくさんの点の中で、なぜか混乱ではなくやさしい気持ちになる。その薄情な、事実とも創り出された夢ともわからない、ぼんやりとだけ光る点たちに囲まれているのに、僕はあたたかな許容を覚える。

 本当はいつだってそういう気持ちでいたい。だから僕はいつも混乱や怒りをどうにかやっつけてやろうとする。
 けれど僕には、坊さんのように地獄と天国を共存させながら、世界中に無差別に向けるものと同じ種類の救いなど必要ないし、僕自身も僕の近しい人たちに対してそれをしたくない。
 僕に必要なのは、無情な絶対普遍の力学などではなく、もっと個人的な想像力のやりとりだ。僕達が生きながらにわずかばかりそっと積み上げる、名もない道端の石たちなのだ。

 個人的で唯一的な優しさだけが、混乱をほんわりやわらげ、時間と空間を超えてそれをやがてそっと治める。

 子供用風邪薬の味がするオレンジジュースをもう一口飲む。
 最も個人的な理由をもってそれは僕の体に染み渡り、そして僕のふたつの過去とそれを繋いだ現在にとって最もやさしい味となる。
 
 それでも僕はまだ風邪っぽい。
 どうやら記憶の因果関係は風邪の治療まではしてくれないらしい。