ベルトコンベアー

 二十三日からの僕の三日間は、ベルトコンベアの速さによって統制されていた。
 ベルトコンベアが運んでくる箱の中の所定位置に、ビニール手袋でひたすらに佃煮を詰める。二十四時から朝九時までの間に約一万個のそれを完成させるのが僕の新たに契約された職場だった。
 毎分二十個の速さで流れてくる箱が出すカタカタという音と、時々聞こえる怒鳴り声が、僕のジングルベルだった。メロディーの無い、悲しいほどに乾き切った曲だった。

 人には全てを脱ぎ捨てる必要がある時がある。
 ゼロに立ち返らなければ許容できない問題が起きた時、それをできるかできないかを優しさと呼ぶのかもしれない。

 ベルトコンベアは黒く太い時間軸となって、僕の三日間を完全に支配した。そして、その目の前に立って、息を殺しながらただルーティーンワークの一部として過ごしていると、僕はやがてそれに反発するその煩悩のような自らの業に苛まされた。

 十五の時に青森の寺で座禅を組んだ時を思い出した。泣き始めた初夏の揃いの悪い蝉の声と、そこへ向かう途中で目に入った『りんごシャーベット』の文字が、何度も浮かんできては僕のあらゆる欲をかきたてた。それから、好きだった女の子の名前、笑顔、香り、お寺の畳の匂い、それを擦る足袋の音、そんなことが全部過ぎ去った後、僕は真っ白になった。二時間のうちの今がどのあたりなのか。僕が存在している位置の地図、今まで体験してきた時間の往来、全てが混沌としながらも平和に通り過ぎ、浅い睡眠状態のように真っ白な世界が、長すぎでも短すぎでもなく、あるべき姿で僕におとずれた。

 ベルトコンベアの前の僕は、そのように平和な心の旅に出ることはできなかった。真の修行の価値を突きつけられ、僕は屈していた。自らが纏う白衣と、黒いゴム製ベルトのコントラストに圧倒され、その中にいるカラフルであるはずの自分がまた僕を内側から圧迫した。
 そこにいる僕の中には、十代の禅寺で想い描いたような青りんごシャーベットのミントグリーン色や、目を閉じながら聴いたお坊さんの足袋がやさしく擦れる音、好きだった女の子の笑顔のように、その頃におけるまだ先の将来を想う時に似た、ぼんやりと浮かんではぼんやりと消えていく種類の優しいハローグッバイはなかった。僕は毎分正確に二十個のお重で刻まれる時間の中で、はっきりとした輪郭の欲と業にとりつかれ、そして逃れられずにいた。

 僕は僕の住む世界がおそらく三つ目のパーティを終えた頃に、その場所を思い浮かべた。巨大な冷蔵庫の中で、凍えながらその暖かそうな光景を想った。

 箱と怒鳴り声がおり成す曲に僕はふたたび耳を傾ける。自らの至らない場所を想いを馳せる。僕が存在しない場所を想像する。
 僕はそれを受け入れなければいけなかった。僕にとっての静かに薄れゆくべき存在とはその暖かな場所で、それを解き放つことでしか僕はおそらく救われないであろうと考えた。自分のいる今現在の場所をまず睨めつけなければ、と。

ブラッドオレンジジュースが子供用風邪薬の味をする

 
 僕は風邪っぽかった。
 風邪にはビタミンCだろう、ビタミンCと言えばオレンジだろう、オレンジジュースでも同じだよね、という流れでブラッドオレンジジュースを買った。どうせなら飲み慣れた濃縮還元のものではなくて、ちょっとお洒落に、というわけでブラッドオレンジジュースを選んだ。
 こどもの頃、まだ幼稚園だったころに風邪をひくと病院から必ずもらっていた液体の飲み薬の味がした。甘いのに、どこか薬っぽい化学の味。
 でも、そのうち、ブラッドオレンジジュースが子供用風邪薬の味に近いのか、僕が風邪っぽいからブラッドオレンジジュースの味に子供用風邪薬の味を見つけてしまうのか、それがわからなくなった。
 
 僕はいつも原因と結果が勝手にひっくりかえってしまうややこしいオトコだ。
 そうなってしまうといつもの迷惑にミラクルな世界へと僕は足を踏み入れる。内側が外側になり、外側が内側になる。右側にあるはずのものは本当は左側に位置し、過去に存在したものが未来への道になる。
 熱で頭がぼーっとしたまま、事の因果関係について想いを馳せる。
 もう僕にとっては過去でも未来でもない話に。
 
 『風邪にかかって飲んだブラッドオレンジジュースがもともと子供用風邪薬の味がするのか、現在の風邪がこどもの頃に風邪をひいた時の味覚を引き出すからそう感じているだけなのか。』
 
 それはどちらも正しいと言うにはあまりにも乱暴すぎるのではないか、とふと思った。確かに彼女らは違うふたつの物で、ブラッドオレンジジュースは子供用風邪薬よりも黒の濃い赤い色をしているし、酸味もずっと強い。僕のなかのエゴが、記憶の混乱をなくす為に、都合のいいようにその違うふたつを最大公約数的につなげたのだと説明されるだけでは、僕の中の過去や現在が未来となるには何かが足りなすぎる。
 誰にだって現在の自分の因果を想う。
 パーソナルで、だからこそ激しく、そして吸い込まれるように光り輝く方程式を求めようとしたっていい。
 
 僕は自分の人生の時間軸の狂った人間だ。
 僕にとっての過去はふた通りあり、その混乱を受け入れる現在の自分はひとつでしかない。そのふたつは僕の許容の範囲よりもずっと巨大で、やがて僕から優しさやぬくもりとともに、存在した事実そのものすら忘れさせようとけしかけてくる。
 そして今の僕には、その怒りのような過去を想う残りかすの気持ちを受け入れてくれる先がない。自分の中にも、僕にとっての世界の全てにも。弱い僕は、僕の存在する世界の過去をも受け入れることができなくなりそうだった。
 だから僕は精一杯逃げた。ふた通りのうちのひとつの過去から。断崖を転げ落ちもんどり打ちながら、事実でありながら僕の記憶には刻まれていなかったそいつが、もう追いかけてこれない場所へ行こうとした。
 それでも僕は逃げ切れなかった。ふたつの因は紡がれて果となり、逃げていた間もずっと僕の首根っこに固く結び付けられていたのだ。

 そういった後悔や過去の呪縛に苛まされながら、僕は何となしにブラッドオレンジジュースをもう一口飲む。やはりこどもの頃に飲んだ風邪薬の味がする。それから、こどもの頃に済んでいた家の冬の暖房の誇りっぽい匂い、白猫シバの泣き声とオリーブグリーンをした目の色、将棋を指すパチンという音。徐々にもっとたくさんの記憶の断片を風邪薬は僕にもたらす。おじいちゃんのキセルのくすんだ銅色、絹の反物の防臭剤の匂い、ストーブの上で悲鳴を上げる薬缶。
 たったふたつの点の間が一直線で結すばれ、僕を混乱させていたのに、今はその点の数がホタルの光のようにあちこちから現れ、僕の想いの及ばない記憶までも思い出させる。
 しかし僕は、そのたくさんの点の中で、なぜか混乱ではなくやさしい気持ちになる。その薄情な、事実とも創り出された夢ともわからない、ぼんやりとだけ光る点たちに囲まれているのに、僕はあたたかな許容を覚える。

 本当はいつだってそういう気持ちでいたい。だから僕はいつも混乱や怒りをどうにかやっつけてやろうとする。
 けれど僕には、坊さんのように地獄と天国を共存させながら、世界中に無差別に向けるものと同じ種類の救いなど必要ないし、僕自身も僕の近しい人たちに対してそれをしたくない。
 僕に必要なのは、無情な絶対普遍の力学などではなく、もっと個人的な想像力のやりとりだ。僕達が生きながらにわずかばかりそっと積み上げる、名もない道端の石たちなのだ。

 個人的で唯一的な優しさだけが、混乱をほんわりやわらげ、時間と空間を超えてそれをやがてそっと治める。

 子供用風邪薬の味がするオレンジジュースをもう一口飲む。
 最も個人的な理由をもってそれは僕の体に染み渡り、そして僕のふたつの過去とそれを繋いだ現在にとって最もやさしい味となる。
 
 それでも僕はまだ風邪っぽい。
 どうやら記憶の因果関係は風邪の治療まではしてくれないらしい。

Frustrated Imcorporated

 
 悲嘆は結束を好むと彼らは言う。
 

 冬の山には死が溢れていた。
 氷点下の気温と短い日照時間は、死の絶対値として生のそれを圧倒していた。


 その死の風景を、ひと通り僕だけのアングルで水性カラーのペンを使ってスケッチした。
 何度も手がかじかんでは描くのを止め、ポケットの中で暖める。
 真っ白な風景にわずかに残る茶色や緑を、仲間を探すみたいに必死になって求めた。
 既に死の色にあるキャンバスに、僕は生命が喰いしばる色を見つけては手に取って塗った。
 気が付くともう日は沈んでいた。

 
 僕は街の光の届かないところまで行ってみようと考えた。暗く、誰にも気づかれない場所に。そこに祠を求めて。


 自分の吐息の音と、雪を割る足音だけが聞こえる。
 夏にはそこにいた鳥たちがもういない。住みやすい場所へ南下してしまったのだろうか。
 僕は注意深く仲間の音を探したが、こんな状況でも仲間を探す自分に気付き、やがてそれをやめた。


 いくつか小さな谷を超えたら、僕は方角を見失っていた。
 作為的にそうなるよう歩いていたから、たどり着くべくしてたどり着いた結果だった。
 完全なる死の密室に僕は足を踏み入れようとしていた。


 しかし、僕がその『死の密室』を目指すのに重要なのは作為的な方角などではなく、そこに既に存在する氷点下の気温だったのだ。
 

 フードから出る顔は、その気温の中で無言を通したために赤く硬直し、無表情を通り越していた。耳の凍傷がひどく、熱を持っているのがわかる。足先の感覚はもうだいぶ前からなくなりはじめていた。すねまで積もった雪から足抜くためにふとももを上げるのも辛いほどに、僕の体は凍り始めていた。


 その何もかもを凍らせる祠が自分をシンプルにする。
 その圧倒的な死の力が、まだ"生"の部分に属している自分の、そこでは必要の無い余計なものを削ぎ落とす。
 僕の業深い贅肉を、その嫉妬と憧れにとりつかれた思考を。
 

 歯がガチガチとなり始める。
 昔にカナダの2000m級の山で遭難しかかった時を思い出す。あの時僕は、その後すぐに与えられ触れたぬくもりに、ああ、これで一生生きていけると思ったっけ。
 

 僕は、やがて斜面を登ることを諦める。
 そして山を下るための道を探す。
 

 登る時にはあった意思のようなものは、下る時には感じられなくなっていた。ただ重力のような均等な優しさを持つ生命全体の方程式の中に、僕はぽつんと存在していた。


 山を降りて、橙色のその街の光の届く場所で僕は考えた。
 もっともっと行けただろうか。
 シンプルな自分が選ばざるを得なかった道は、その諦めは、下山した後に振り返って見上げた時、なつかしく心地の良いものでは決してなかった。
 

 スニーカーはすっかり凍っていた。
 紐がカチカチに固まっていた。
 僕の我侭に付き合ってくれた挙げ句に、不器用に捩れ、ひどく窮屈な格好をして、重力とは違った方向を向いて凍っている。


 僕の悲嘆は、それ自身でひとつの結晶となった。
 他の何とも交わることなしに。
 雪の粒を創り上げることのできない、死の色をした結晶になった。
 

 帰りのバスの暖房にあたっても、まだ足の指や耳が千切れそうに痛かった。
 そっと触れただけで、その充血しきった皮膚は悲鳴をあげた。
 メランコリックな自分を、いつもは茶化すはずのもう一人がいなくなってることに気付く。
 ただフィジカルな痛みだけが、そのほこりっぽいバスの中でまるで違う人格のように存在した。

戦争を終えた世界 

 どこにも到達しない。

 僕はながら族なのだ。
 仕事をしていたってあの子の事を考える。
 そして彼女は違う。集中力の前頭葉から僕は消え失せる。

 僕は彼女のなかに生きている自分の半分が死んでしまって、痛みにのたうちまわる。
 それは死に最も近い痛み。
 生きながらにしてそれを体験する。

 はらわたを裂いてくれ。腸をひきずりだして、その退化した腎臓を握りつぶしてくれ。

 叫び、声が枯れる。

 地雷は未だ地中の誰も知らない場所に眠り続けている。起爆装置がまだ生きているのか死んでいるのかわからない。
 僕らはそこを手を繋ぎ渡る。
 
 僕のしらない波長で無線はやりとりされる。知らない種類の暗号で。

 僕は負けたのだ。
 意外なほどあっさりと、そして決定的に。

 戦争は終ったと世界が決める。痛みは消えた、雲は晴れたと。
 僕は、僕らは、今日もそこを歩き続ける。踏まないように。

ドラッグクィーン的冬季

 今年の冬は厚化粧らしい。去年よりも少しだけ。
 それでももう12月だというのに、日が沈まない間にはちょろちょろと雪が溶け出す音が聞こえるほどの陽気もある。気まぐれなドラッグクィーンのような天候だ。

 それにしても、雪化粧、というにはあまりにもさんざんな量が降り積もる。

 東京で見るような、枝だけの木々やカラフルな人々の防寒具にそっと頼りなく降りたち、普段あじけない鼠色の街もろとも、そう長くない間だけ淡い白紫色に変え、そしていつしかつつましく消えてい行く、とようなのを雪化粧というのであって、すでに膝まで積もった雪に追い討ちをかけるような視界ゼロメートルの吹雪なんてのは、同じ雪景色を語るにもまったく違った話になってくる。

 

All We All Are All Yellow, Aren't we?

ホワイトカラー・イグザンプション(エグザンプションとも読まれる・以下略してWE)、断固反対です。
キリストとアラーが組んで、正義と道理を振りかざしながら信者以外を蹂躙してるみたいだ、経団連と厚生省のタッグ。
法律の解釈というのは明確でなければならないし、それが人間を暮らしやすくするものであるべきだと僕は思うけれど。
WEは、僕の解釈では、『過労死、病気をした人間に大して、会社、社会保険庁は責任を負う義務がなくなる』という重大な欠陥を持つ法案だ。

父を亡くした家族が路頭に迷うストーリーが僕には見える。
病気や労働時間過多で、社会から徐々に逸脱してしまうひとたちが僕には見える。

なんて想像力のない法案なんだろう。
もしくは想定済みで、それを承知で推し進めているのだろうか。

もうひとつひっかかるのは、それを報道するマスコミがいないことだ。
語られている、と言うには内容はかなり薄い。
コマーシャライズされている報道の悪い面が出ている。
言論すら、ポッキーやカローラの広告に乗せなければ伝わらない時代。
ポッキーやカローラを無視する言論は、やんわりと弾圧される。

恐ろしい世の中だ。
僕らはブログやMIXIで、まるでおしくらまんじゅうみたいに寄りそってはいるけれど、そしてまるで世間に我を示すツールを得たり、みたいな気分になっているけれど、肝心な事を重要な人たちに伝える方法を本当は知らないんだ。
密室めいた国会議事堂で作られている法案を、指を咥えて眺め、しぶしぶ受け入れるしかないんだ。

感覚的なものでしかないが、アメリカのほうがはるかに民主的だった。(アメリカにいた僕は選挙権を持たない悲しいリーガルエイリアンだったけど)
大統領選挙のあのおおきな盛り上がり、投票の日が休日になること、クラスでケンカになるほど議論が起きること、日本では経験しない。
民族的な問題も大きいだろう。
あれがかわいいとか、言葉使いの美しさがどう、とか、そういうことに日本人は忙しいのだ。
赤信号をみんなでわたって我慢しようという民族であることは間違いない。

ネットで大議論になっても、顔と顔を突き合わせての大議論は嫌う民族なのだ。
それは大きな何かを乱すから。

しかしいまやその大きな何かは、かつての美しさは失い、今は円とドルにコントロールされた、経団連の政治献金の大きさにのみ比例するものになっているのではないか。

ああ、世の中にはたくさんえらいひとたちがいる。
自分の人生にプライドをもち、この日本を作ってきたひとたちがいる。
彼らは今何をしているんだろう。
今の30代や40代、その下の世代、孫の世代を汚す法案が存在してしまう時にも、高度成長期のしがらみとご恩をJ民党に返還しつづけているのだろうか。

もちろん人任せではいけないことなのだ。

われわれはわれわれでたたかわなければならない。

悲しみの存在意義

 キスがうまくなりたいという願望を持ったことがある人間と、それを自然のなりゆきに任せようと思った人間との間には、創造する側とそれを批評する側くらいの隔たりをもって、永遠に分かち合えない価値観が存在する。そしてその間にまたキスに関する様々な考えをもつ人が無数に存在する。
 
 人の価値観は人の数だけあるが、悲しいことにそれを統制しようとする力は圧倒的な巨大さで存在する。

 私は、悲しいときには悲しい歌を聴いて、その歌詞に自分の沈み込んだ感情を叫ばせて傷を癒す、という人がいる。
 一方で、本人の意思とは関係なしに、もしくはうらはらに沈みゆく感情など、サンバのリズムさえあれば、私は供え物のように天に召され、そして忘れ去ることができる、という人もいる。
 
 ピカソを見て悲しいと思うか。
 
 それは数多の批評家や、出尽くし、なぞられ尽くした論理が決めることではなく、君が決めることだ。

 その絵は悲しい絵なのだ、と。

 君がどう感じるかが最も正しい。サンバのリズムにも涙する感情こそが美しい。
 
 世の中を真正面から見る目を失い、四六時中耳鳴りが止まない、そんな世界の歪みに存在する自分でも、精一杯と同じ意味のスローモーションでやっと触れることのできる感情がある。
 この世の断崖にはまり、抜けられず、もがき苦しんで入いる時の、全ての喜びや楽しさから最も遠いところにいる君の、歓楽街の娯楽のような簡単な癒しを受け入れられない君の、何を見ても悲しいと感じるその評価が、創造を最も美しくする。

 しかし君は、その自分の"評価"が悲しみという一方的な感情でのみから構成されていることに途方にくれる。なぜミルクポーションのような微量の楽しさすらそこにはいないのかと。苦いその濃茶の味と香りに、君は君自身の至らなさを考える。そして、何かとても大切なものが欠落した人間である気分になる。

 世の中の平等というやつは、時として無邪気に、何かが欠けているという人間を容赦なく襲う。車椅子から眺める運動会の風景のように、悪意なき傷を君に刻む。そしてこう耳元で囁く。
 「傷つく君が悪いのだ。」
 傷はその台詞の繰り返しによってさらに化膿し、ただれる。いつしか感情が豊かではない自分を呪いさえする。

 君は君の感情が、―種類がどうであれ― 猛々しく一方向のみを指しているなによりも太く鋭いベクトルであることに気付いていない。
 様々であるはずの価値観をひとつに統制しようとする、悪意に満ちた強大な力にすら太刀打ちできるほどの、時間と頭脳の強制的な洗礼によって贅肉を削ぎ落とされ、骨と皮だけになった評論の理のミイラを完全に葬り去るほどの。
 
 愛想よくあちこちを向いた、喜怒哀楽がバランスよく入り混じった感情ではなく、一方向的な矢印であるからこそ美しいのだ。
 感情を様々に揺さぶる曲は多々あるが、まったく悲しみしか感じさせない曲というのはそう多く存在しないように。それはきっとあらゆる意味でただ美しい。

 君が何をしていても悲しみしか汲み取れない時、感情のミックスでゴテゴテと着飾るあらゆる人間をさしおいて、君は最もプレシャスで美しい存在である。

 悲しみしか吐き出せず、もがき苦しんで、自己嫌悪に己の存在すら呑まれそうになっている時、君は美しいのだ。

 美しいものには存在する意義がある。
 
 きっとフェンスの向こうの運動会から、車椅子の上の君に気付き、悲しく美しい君を見つける人間がいる。
 そして墨絵のようにシンプルな悲しみを持った君を見て、彼は君を美しいと思う。君は、君自身の気付かない自らの美しさを彼に指摘され、やがて悲しみという感情の呪縛から解かれる。

 悲しみしか持たない君にも存在する意味がある。