雪の降る街は照らされて

 さっぽろはすっかり雪だ。雪国の四季はわかりやすい。雪が降れば冬だし、解けはじめたならば春、八月と九月に少しばかり夏があって、山頂が紅葉しはじめたらそれは秋だ。そしてまた雪が降れば、「ああ、いやだいやだ。」とみんな言い始める。短かった夏を思い出しながら、スタッドレスタイヤに履き替え、冬囲いをする。庭いじりが趣味です、みたいなおじいちゃんが、来たる雪解けの日に再び自分のかわいい庭をかわいらしく見せるために、厳しい冬を越えられるよう手助けをする。そんなシーンを団地のあちこちで見かける。

 冬の風景は好きだ。すっかり年をとってしまって、雪道や吹雪を楽しむ余裕はなくなってしまったが、冬が持つ死の匂いやそれを超えようとする人びとの行為が好きだ。

 さっぽろの冬の風景の代表的なひとつにホワイト・イルミネーションがある。街を電飾して、雪とのコラボレーションで映えさせる。今年も、青白いキラキラや、オレンジの暖色で、11月の枯れ切った大通公園を様々に照らす。ああ、きれいだ。人工的な光が冬を照らしてる。これから訪れる冬の厳しさに精一杯抗ってる光景が、それを一瞬忘れさせてくれる。
 これがもし真っ暗な冬山だったら、氷点下の気温と視界ゼロという自然の圧倒的な死への力学に包まれてしまって、恐怖で、実際のフィジカルな死に至る前に頭が狂ってしまうかもしれない。しかし実際にほんの少し郊外へゆけば、そこには真夜中の冬山がごろごろしていて、そこに住むクワガタやら山菜やら蝦夷松やらトンビやらは、毎晩毎晩その寒さと暗さと戦っているんだなぁ、と思わずマインド・トリップをしてしまう。せっかくきれいな風景を見ていて、こころの中の自由な旅をしたのに、結局車で日帰りできる距離なんかにでかけてしまうくらい、冬という季節が見せる生と死の絶対値に自分がさらされる。死が生を圧倒する季節の到来である。