父なる夜

 夜とは仲良くやるほうがいい。
 けれどひとりで過ごす夜と仲良くするのは難しい。明け方まで起きていると夜霧と北風の悪霊に呪われて奇妙なダンスを踊る羽目になる、なんて事は誰も思ってはいないだろうけど。それでも夜と付き合い続けていると、AM3:00ころには得も言われない不安のオーラを身に纏う羽目になる、というのは誰しもが経験した話だろう。
 最近は、インターネットという、真夜中でも、親しい人のみならず、不特定多数の顔も知らない他人と交われるツールがあるので、幾分夜を過ごすのに苦痛は減っているのだと思う。しかしながらインターネットの普及によって、むしろ夜型に移行しやすい環境ができてしまい、そこから抜け出すことができなくなってしまって、結局は困ってしまっている人が増えているのも事実だ。電線で織り成す水彩調のぼんやりした人とのつながりでは、夜の闇の持つ広大な漠然さを彩ることはできないのだ。夜と仲良しになるのは、ツールの便利度や人との交流状況の問題ではない。そこに依然として夜は闇を持って存在しつづけ、僕達を飲み込もうと機会を伺い続ける。
 夜は、もっともっと包括的に絶対的な闇なのだ。科学の発達では決して覆す事のできない、ビッグバンが創った悪意にも似た無の交響曲なのだ。
 夜は、生命の母なる象徴である太陽のその反対に常に位置し、生物としての人間が、その進化の最古端のもっと前にDNAの中枢へ刻まれた、全ての悪魔の父の顔をしている。
 途方も無い、絶対に触れることのできない距離にある無数の星達を抱えるけれど、太陽という絶対的な存在と比べると、やはり漠然と空に横たえられた漆黒であることに変わりは無い。とらえどころのない、それでいて大きな存在感で頭上にある闇だ。太陽を飲み込み、月と星を吐き出す。その瞬く星達には永遠に手が届かない。万物のほとんどが眠りにつき、母なる太陽を待つ時間。
 夜とは父なのだ、と僕は思う。いつも同じ明るさ、表情で迎えてくれる太陽を母とするならば、小さな星座を掲げて様々な闇の深さで追い被さってくる夜は父と呼んでもいいだろう。
 僕の父も夜の顔と同じ顔をしていた。嵐や吹雪の景色をも飲み込む闇を持っていた。母は、雨の日も風の日も、風景としての空を様々な表情にしながらも、結局は太陽そのものでありつづけた。
 父とは、なんだったのだろう。同姓、共通の趣味、見続けたその背中、大きく、そして強い。しかし、どこか母にはかなわないという諦めの表情。悲げなそこに見る闇。僕は父と仲良くやれていただろうか。その闇を、太陽には永遠にかなわない微かな光度をうけいれる術を知っていただろうか。
 仲良くやりたい、仲良くやりたいと思いながら、その闇を受け入れられるかどうかをいつも迷っていたのではないか。『午前3時の不安』からは結局逃れられなかった気がする。
 ただ、仲良くしたい、とは思っていた。
 それは、今現在、夜とともに時間を過ごしたときに、寂しさにも似たどうしようもなく漠然とした不安を抱えながらも、夜と仲良くしたいと思う気持ちにとてもよく似ている。
 この先、僕は夜と仲良くする術をもつことができるだろうか。仲良くしたい、という気持ちだけはあるのだけれど。
 夜は、闇として、僕の頭上を包み続けてくれるのだろうか。