あなたがわたしのことを覚えていてくれれば、世界中の人に忘れられてもかまわない。

 と、小説のなかの素敵な人はいった。
 僕は昼時でごったがえすロッテリアの片隅で一粒涙を流す。同情でも感動でもない、しいていうなら達成がもたらすそれかもしれない。
 電子音のミッキーマウスマーチ。チャイルドチェアを引きずる音。タバコの灰を捨てる「コン、コン」。子供が長靴で走る音。携帯メールのプチプチ。キャッシャーの甲高い清算音。
 いつのまにかすべてが聞こえなくなっている。まるでその本の中の人物たちのように、音は僕のまわりから少しずつ姿を消し、視界には白濁した『もや』がかかり、文字を見ていたことすら忘れている。嗅覚はそれまで僕の顔のまわりに漂っていたキャスターの煙を感じなくなり、コーヒーの後味も徐々に自分の舌に染み入って自分自身の味と同化し、やがて何も感じなくなる。
 僕の頭の中は3重奏を奏でていた。小説のストーリー。それが勝手に自分の人生にフィードバックされたトラック2(いつの間にか僕も責任のある傍観者として小説の世界にいた)。その二つから生まれる言葉のうず。
 しばらく頭がくらくらしていたが、やがてまた別のチャイルドチェアを引きずるかん高い音で『こっち』側へ帰還する。BGMは電子音マーチから『美女と野獣』のテーマへと変わっていた。僕がNYで2度見たミュージカルの。プリンセスのボーカルに心が和む。
 コーヒーの最後のひとくちを啜り、キャスターワンに火をつける。3台のキャッシャーは相変わらず忙しそうにチン、チン、と音を立てている。
 窓を見ると晴れた空。きれいなコバルトブルーの冬空に、子ネコみたいな白をした雲。ちらちら雪を降らしている。
 融けかけた雪道を滑るように歩く子供たち。年老いたスピッツを抱きかかえたおばあちゃん。バスがのっそりとバスセンターから突き出てくる。
 信号が赤から青に変わり、冬眠中の蛙のように並んでいた様々な種類の車が走り出す。おしりから真っ白な煙を吐いて。
 赤、青、黄、赤、青、黄、の順番で街はリズミカルに動く。恋人がいるのに浮気している人、30年無遅刻無欠勤の清掃業者、孫へのプレゼントを買ったばかりのおじいちゃん、チャイルドシートに男の子を乗せた若いお母さん、スピッツを抱いたおばあちゃん。どのような者にも均等にそれは働きかける。まるで「いいかい、誰もがそれを計ることは不可能と思っているが、実はここだけの話、人が持つ幸運と不運の絶対数はみんな同じなんだよ」と言わんばかりに。
 ストップ、そしてGO。黄色に気をつけてストップ、そしてGO。
 その繰り返しで、僕らは誰もがフェアに、そして均等に生きている。そう考えてみる。